シリーズ<共産主義の復権・発展をめざす青共同の立脚点について> No.2

戦後共産主義運動の概括(抄)

English Page  1998年12月23日



『マルクス・レーニン主義をかかげて』No.6 83年8月 掲載論文】

シリーズNo.2 戦後共産主義運動の概括 82年1月合宿レポート

   <一>日共一元支配から、日共スターリン主義と反スタ主体性論との対峙の時代へ

  【戦後日本共産主義運動各時代の特徴】
 1、日共一元主導下の時代 1945−55年
  【日共における所感派と国際派との分派闘争】
 2、反スタ派=新左翼の登場と60年安保
  【スターリン主義、トロツキー主義、主体性論、宇野理論について】
 3、60年代末階級闘争の昂揚−新左翼・日共の激突と革命論争の活発化
  【「三派全学連」「全共闘」「反戦青年委員会」「八派共闘」「ノンセクトラディカル」などの用語について】

   <二>70年代、新左翼の挫折−革命路線論争の後景化と、第三潮流、共産主義研究会の形成

 1、60年代末闘争での新左翼の挫折直後の状況−社民左派の戦闘化と“第三潮流”の登場
 2、70年代初頭の第三潮流と新左翼
 3、第三潮流内における愛知協会変革グループの位置と共産主義研究会の結成
  【70年代初頭、社会主義協会の分裂と共産主義研究会の形成
 4、革命路線純化、政治闘争の目的意識的追求への敗北感の定着と、入管・狭山闘争への依存
  【全共闘活動家、構革左派に強大な影響力をもった共産同の革命論】
 5、三里塚開港阻止決戦−菱田ブロックの台頭と党的主導性後景化の極限的進行(1977〜)
  【菱田ブロック、労働情報系について】
  【10・8羽田闘争と3・26管制塔闘争】

   <三>80年代、既存左翼による新左翼運動の右翼的清算と、新たな革命派建設の展望

 1、反核運動高揚下で赤裸々になった左翼戦線の経済主義的腐敗
 2、80年代初頭、新左翼運動の右翼的清算につき進む既存左翼の限界
  【労働情報系の指導的思想】
 3、段階区分のまとめ
  【戦後、日本左翼党派の系譜】


3、第三潮流内における愛知協会変革グループの位置と共産主義研究会の結成

 共研は、社会主義協会の愛知グループを母体としている。

 60年代末闘争の総括に関して、先に、第三潮流は、「新左翼は、労働運動を基盤としていないので(→学生を基盤としているので)敗北して当然」という理解をしていると書いた。それに対して、愛知グループは、「新左翼は、反スタイズムに立脚していたために敗北して当然」という認識を形成していった。これは、愛知グループが、協会系とは言え、全共闘運動を担い、しかも、八派系が霧散し、あるいは、革マル、日共に叩き出された後、いわばその分まで、日共−スターリニズム、革マル−反スタイズムと直接の党派闘争、理論闘争を迫られた事に条件づけられている。

 この条件の下で、愛知グループは、反スタイズムとの全般的な対決点、反スタイズムの根本的な誤謬の分析を押し進めた。

 だが、愛知グループ−共研は重大な弱点を負っていた。

 第1に、政治闘争論の総括をなし得ていなかった事。

 第2に、反スタイズムとの対決の結論として、マルクス・レーニン主義の積極的な評価にいきつくが、その結論と、第三潮流のマルクス・レーニン主義の一般的評価(マルクス・レーニン主義を権威主義的に持ち上げ、実際は、組合主義的に歪曲する思想)とをさ程違いないものと捉え、第三潮流を、総体として積極的に評価してしまった事である。

 即ち、愛知グループ−共研は、「新左翼は、学生主体の運動だから駄目だった」と右翼的に切り捨てる第三潮流の一翼を客観的に担ってしまったのである。

 その結果、愛知グループ−共研は、70年代を闘い新左翼運動の総括を熱望していた多くの労働者大衆と結合する条件、彼らを反スタイズムの泥沼から飛躍させる条件を失う結果となった。


【70年代初頭、社会主義協会の分裂と共産主義研究会の形成】

 共産主義研究会の源流は、愛知の協会変革グループと、人民の力派を除名された渡辺(人民の力派学対)桐野(同機関誌担当)グループである。

 社会主義協会から、独自の革命党建設を目指して分裂した一連の勢力の筆頭が、国労青年部などを基盤とする部分であり、二番目に結集する部分が、九州、京都、学生を中心とする部分である。この両者で人民の力派が形成されるが、主流派は前者で、後者は、75年に分裂して戦線−連帯派となっている。

 三番目に協会から分裂した愛知グループは、元々、協会内で、二番目のグループとほぼ同位置にあったが、愛知グループだけが人民の力派への結集を拒否されたのは、細かい事情を除けば、人民の力派主流派が、学生運動を排除した労組だけを基盤とする党建設を考え、二番目に結集した部分との摩擦も、既に強めていたことによるものである。

 渡辺・桐野は、人民の力派二回大会(72年)が、学生運動の停止、政治闘争の停止(組合としてのみ参加)、愛知グループの結集拒否を決定したことに反対し、反中央陰謀活動を行ったとの理由で除名される。

 共産主義研究会は、この渡辺・桐野グループと愛知グループによって形成される。(72年)

 九州、京都、学生グループは、人民の力派二回大会の未曾有の組合主義的方針に動揺し、一時は、渡辺・桐野グループ、愛知グループと共に、人民の力派から出て組織建設を考える部分も形成される。しかし、結局、動揺して、人民の力派に残り、「長期にわたる変革・強化」などと称して、反中常フラクションを派閥的に形成するが、人民の力派内部で公然たる理論闘争も行わないままに、財政未納などを理由に排除される最悪の脱落となる。だが、当時共研指導部であった渡辺・桐野は、この反中常フラクへの批判を抑圧し、無条件統合を画策して共研四回大会で敗北し、脱落し、戦線派に合流する。

 尚、この四潮流の中で、共研を除いた三潮流は、社民左派が新左翼より階級的であったと捉える特徴を持つ。

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