【投稿と返事】「協議会準備会の発足にあたって」をめぐる論争

English Page  1998年11月12日




【以下の一連の文章は、津村洋「協議会準備会の発足にあたって」にたいする橋本さんの批判と、それに対する返事を抜粋したものです。議論は継続中です。論争への積極的な参加・介入を呼びかけます】


【投稿】「協議会準備会の発足にあたって」批判メール(橋本里子)

 津村さんに異論があります。協議会は団体間で行われるものである、と言われれば仕方ありません。

 けれど、今の左翼の諸派、諸グループが共産主義運動についてのすべての考え、意見を代表しているとは思えません。しかも、現下の協議会に参加する団体はわずか限られています。今日の左翼グループが運動を発展させてきた上での協議会ならばそれで良いでしょう。けれど,事実はその逆です。もっと深刻です。少数の左翼団体からだけでなく、個人の、労働者、大衆からも意見を聞く必要があると思います。

 私は、今、協議会に参加する場合、IEGに入れていただこうか、個人で参加するか迷っています。私の意見は、IEGと全く同じではありません。その場合、その団体の主張をはっきりさせるということは、どうすることになるのでしょう?多数者の意見ということになって、少数者、あるいは個人の意見は切り捨てられるのでしょうか。団体に入ったために自分の意見を偽ったり、ごまかしたり、言えなくなったりするのでは、この協議会に参加する意味が無いからです。 (1998年10月23日)


橋本さんの「協議会準備会の発足にあたって」批判メールへの反論メモ(津村 洋)

 橋本さん、こんにちは。MAILどうも。
 早々の返事、意見感謝します。
 以下、簡単に返答を書きます。

橋本里子 wrote:
>
(橋本さんのメール引用部分略)
>

 第1に、僕の見解は、協議会は本来グループ間の相談の場であるが、個人結集を積極的に受け入れるべきだというものです。従って、協議会がグループ参加と個人参加で構成されることに異論はありません。左翼の惨状、協議会を構成しようとするグループの微々たる力量、および個人の労働者、大衆から意見を聞く必要について同感です。もし、個人参加が拡大していくなら、協議会は一刻も早く発展的に解消すべきでしょう。

 第2に、その際に、グループ参加と個人参加の複合的性格、その矛盾に自覚的でないと、協議会がずるずると政治サークル的党派として惰性的に自己回転してしまう危惧を持っています。この点でも建党協のリアルな総括が不可欠だと思います。

 第3に、IEGはもちろんのこと、ワーカーズ両派や建党協でも、そこに属すれば、個人の意見は切り捨てられる・・・というような組織ではないのは明らかでしょう。それぞれの機関誌でも会議の場でも各グループに属する人々がみな個人的な見解をどんどん展開しているのですから。それは協議会になっても同様だし、そういう率直な意見交換は大切なことだと思っています。

 第4に、僕がむしろ問題に感じるのは、たとえばSさんやNさんの個人的見解 がどのように建党協の見解と関連付いているのか、それが見えないことです。仮 に、建党協の多数派の見解はこれこれだが、自分はこう考えている・・・などな ど、そういうふうならわかりやすいのですが。そう思いませんか?その意味で党 派性が鮮明にならないと、議論の性格がみえずらいのです。

 第5に、各グループがその党派性を鮮明にすることが、協議会に個人参加した人々が政治評価を下し、論争に参加しやすくする前提になるのではないかと思っています。

 とりあえず以上です。
(1998年10月24日)


橋本さんの「協議会準備会の発足にあたって」批判メールへの返事(山田 宏)

 橋本さん>
 10・23日付の送信のメールを今日受け取りました。津村さんの協議会についての考えに対する反論を書いたものです。

 協議会に参加する主体を、革命を目指す諸組織、グループにするのか、個人にするのかは、私としては、まだ厳密に検討していないので、はっきりした結論を持っている訳ではないのですが、やはり、諸組織、グループではないかと思うのです。マルクス主義が普及する以前の革命運動の黎明期はともかく、今日のようにさまざまな潮流が分岐して存在しているという事態のもとでは、諸個人を主体として考えることは、そもそも現実的ではありません。津村さんや伊藤さんは、どの組織にも参加していない人が集まって協議会を形成するというよりは、現に何らかの組織に参加している人が、その組織の一員としての資格ではなく、個人として参加することによって協議会が客観的には、諸組織の「ボス交」の場になってしまうことを危惧しているのではないかと思います。

 しかし、勿論これは、組織に属さない活動家を排除することを意味しませんし、また、してはならないと思います。そして、協議会が、諸組織を主軸に形成するといった場合、個人を排除することには決してならないということです。むしろ力点は、組織に参加していながら、個人の資格でだけ参加することに歯止めをかけるということにあると思います。つまり、自分の組織の中でも、協議会の中でも同じように、統合のための一致点と相違点を明瞭にする作業を行うのにふさわしい組織性格を持たせるためのものではないでしょうか。

 橋本さんが、IEGに参加するかどうか、(これは、あまり急いで結論を出さなければならないというものでもないと思いますが。)協議会に個人で参加するかどうかということで、疑問を持っているようですが、仮に、IEGのメンバーであって、IEGの多数意見と違っていても、あるいは、組織決定に反対であっても、IEGと協議会で、自分の意見を言い、自分の意見の同調者を組織内外で、作る権利と義務はあると思います。何か、組織決定と反対のことを組織の外では言ってはいけないという考えは、スターリン主義的な正しくない組識観ではないかと思います。

 とりあえづこれで。
(1998年11月1日)


【投稿】「協議会準備会の発足にあたって」への異論と補足(橋本里子)

 私は、津村さんの「協議会準備会の発足にあたって 10・25会議に向けての意見」に異論と言いましょうか、補足があるのです。

 協議会は、「一刻も早く、分立する諸グループ、諸個人をひとつの革命政党へと結合し、変革すること、つまり、対立する分散性をひとつの共通基準を持つ多様性へと結合することを目的とする」そのために、「何よりも、諸グループが党派性を鮮明にする義務がある」と主張されています。

 その場合、どこまで鮮明にする必要があると、あるいは、どこまで鮮明にできると考えるのでしょうか。そのグループの主張は機関紙などで主張されてきていると思うし、わかりやすく明瞭に説明することなど出来るでしょうか?順番に細かい点まで、掘り下げていけば、個人個人でも違うはずです。

 革命運動において、ひとつの正しい理論や路線が予め定められ用意されているわけではありません。そのことに執着しすぎると、現実の情勢に対応できず、空周りしてしまいます。

 一般的に言って、論議をする場合には、全体の議論の中で自分の主張を持っていた方が良いということは言えます。けれど、そういうことをここで言っているわけではないでしょう。また、討議過程の中で、自分の主張、考え方を修正し、変更するということも必要不可欠なことのはずです。私には、党派性を鮮明にするということは、ドグマを主張するということに思えてなりません。

 山田さんにも考えを聞いたところ、「協議会に参加する主体を、革命を目指す 諸組織、グループにするのか、個人にするのかは、・・・、やはり、諸組織、グ ループではないかと思うのです。マルクス主義が普及する以前の革命運動の黎明 期はともかく、今日のようにさまざまな潮流が分岐して存在しているという事態 のもとでは、諸個人を主体として考えることは、そもそも現実的ではありませ ん。・・・」と返答がありましたが、どうしてなのでしょうか?

 では、革命運動の主体も個人ではなく、つまり、個々の労働者大衆ではなく、革命組織=党であるとお考えですか?今日のように左翼戦線が壊滅的ともいえる状況の中で、どの潮流も十分で正しい理論、路線をもっているとは言えないはずです。もう一度、マルクス主義とは何ぞやという根本的な所からの見直し、再検討が必要だと思います。分岐した諸潮流、政治グループの整理、統合だけでマルクス主義運動の再生、主体の再建をはかっていくことは無理です。不可能です。

 レーニンの、ボルシェビキ時代のように,革命運動が高揚していて、労(農)人民によって支えられている革命組織、政治グループなら、そうした団体、組織を軸にした協議会で良いでしょう。けれど、今の日本における左翼の現状は惨澹たるものです。革命党、前衛党を自称する組織が、マルクス主義運動を構築しようとしたけれど、労働者、大衆から支持を受けず、瓦解していったというのが結末ではないでしょうか。何故支持を得られなかったのかについては、厳しく総括する必要があると思います。単に、党が分裂に分裂を重ねていったからとか、(何故分裂を繰り返すのかという解明も必要ですが)「社会主義国」が崩壊したから、正しい「理論」、「路線」を示せなかったからというのではないと思います。私は、党を名乗る人たちが、独自の理論を押し付けようとしたことに原因があると思っています。人は、他者からの押し付けでは、動きません。人は、自ら、正当で、整合性があると感じる方を選びとります。労働者大衆とともに、運動をつくっていくというのでなければいけないと思います。労働者大衆を指導しようとは考えるべきではないと思います。

 私は、いつも革命組織を批判的にみているわけではありません。状況、情勢によって変化するものだと思います。権力と攻防しているときや、ブルジョアジー側の明確な反革命策動、暴挙から防衛するためには、総力をあげての統一的、集中的、中央集権制の強い組織活動、闘争が必要な時もあると思います。しかし、その時でさえ、広範な労働者、人民に支えられていなければ、孤立し、壊滅させられるでしょう。けれど、今は、そういう状況では全くありません。広範な運動作り、労働者が共産主義運動に主体的に参加できるような新たな理論作りが、党派、、無党派、を問わず要求されていると思います。

 「党派性」というのは、一体何なのでしょう?「革命理論」「革命路線」でしょうか。協議会は党派性を持たなければならないのでしょうか。共産主義運動は、労働者自らが創っていくものであって、品定めをするように、党派を選ぶものではないと思います。私は、党派性をもつ革命政党を先につくって、そこに労働者を結集させるというやり方では、労働者、市民活動家は、結集してこないと思います。労働者、市民の運動は、さまざまな課題があり、多元性、多様性を持っています。それに対して、党が直接、方針を提起し、指導出来ると考えることは、傲慢であり、党の中の人間も自ら労働者であるという立場を忘れ、官僚化していく道を開くものだと思います。
(1998年11月9日)

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