日本の共産主義運動の歴史について<1>

English Page  1998年12月24日




【掲載する文書は、1994年当時に、フィリピンの革命家たちとの討議のために作製したもので、フィリピン革命運動の歴史との比較検討を意識した内容となっています。また、もともとは英文で書いたもので、それを和訳しました。未完の部分は、追って追加したいと思います。】


日本の共産主義運動の歴史について<1>

            1994年12月 津村洋(『国際主義』編集会議)


   目 次


1、第1の時期
   a)戦前
   b)戦後の早い時期
   c)1950年代前半
2、第2の時期
   a)もう一つの転換期
   b)新左翼の誕生
   c)安保闘争(未了)
   d)分裂と再編成(未了)
   e)嵐の1960年代後半(未了)
3、第3の時期(未了)



 およそ70年にわたる日本の共産主義運動は、三つの時期に区分しうる。その第1は、1922年における日本共産党の創立から1950年代前半にいたる時期である。第2の時期は、新左翼運動が革命運動において主導的な位置をしめたおよそ15年間である。第3の時期は、新左翼が壁にぶつかった1970年前後に始まり現在に至る。


        1、第1の時期

   a)戦前

 20世紀初頭、日本は高度に発達した資本主義となりながら、地主−小作制度に基づく農村部での封建遺制が残存していた。圧制的な天皇制権力が、独占資本・地主の支柱となり、アジア諸国を奪取して植民地を獲得するために、日清戦争(1894-95)や日露戦争(1904ー5)などの略奪的な侵略戦争を発動した。

 第一次世界大戦後には、被搾取大衆の抵抗が、ロシア10月革命の影響も受けて高まり、ついに1922年7月15日に日本共産党の創立にいたった。日本共産党の創立は、日本における階級闘争の転換点であった。第二次大戦前において、日本共産党は、君主制の廃止を要求し、アジア諸国へのあらゆる侵略に反対し、日本軍の撤退を要求した唯一の政党であった。日本共産党の活動家たちは、侵略戦争に反対し、共同の敵=日本帝国主義と闘った。

 しかしながら、日本共産党は、「全般的危機論」「階級対階級の戦術」「社会ファシズム論」といったコミンテルン第6回大会路線に導かれ、階級闘争の指導に失敗した。[1] さらに、社会主義の考えでさえ犯罪として厳しく処罰される困難な状況にたたされていた。多くの党員や労働者たちが逮捕され、拷問にさらされ、秘密裏に虐殺され、1930年代前半には天皇制権力と特高警察によって共産党は壊滅させられた。

   b)戦後の早い時期

 15年におよび日本の侵略戦争は、2000万アジア人民を犠牲にし、1945年8月15日に敗北に終わった。アメリカ占領軍による支配のもとで、戦後日本共産党は公然たる活動が可能となった。社会民主主義者を含む日本共産党以外の諸政党は、天皇制と侵略戦争を支持していたので、再建された日本共産党は、帝国主義戦争に対する効果的な闘いに失敗したにもかかわらず、巨大な道義的な権威を持ち得た。

 多くの人々は衣食住で悲惨な状況にあり、甦った日本共産党の訴えに進んで耳を傾け、日本共産党の指導のもとに労働運動は急速に拡大した。戦後初期の大衆運動は、日本の労働者階級の革命的力を示した。

 しかしながら、日本共産党の指導部は、アメリカ占領軍を「解放軍」と規定し、軍事占領下での平和革命を擁護した。[2] こうした戦略的誤りは、1947年2月1日の労働者ゼネストを失敗に導いた。1947年に始まった冷戦の下で、さらに日本共産党の指導は、ダグラス・マッカーサー率いる占領軍当局の過酷な反共産主義・反労働者的政策に対する人民の抵抗を妨げた。こうした誤りのために、1949年までに10万人のメンバーと30人以上の国会議員を擁したのに、いわゆるレッド・パージによるマッカーサーの攻撃は容易く日本共産党の勢力を弱めることができた。

 コミンテルン7回大会路線、つまり人民戦線路線により、日本共産党は、情勢と戦略において幻想のとりこになっていた。[3] 反ファシスト人民戦線路背園の考えによると、第二次世界大戦はファシストブロックと民主主義ブロックとの間の戦争に帰結した。日本共産党は、レーニンの『帝国主義論』のように世界戦争を帝国主義戦争として性格づけることから離反し、革命的敗北主義ではなく、帝国主義戦争の一方の側を擁護する立場に移行していた。

   c)1950年代前半

 1950年1月、ソ連邦をセンターとするコミンフォルムは突然、アメリカ帝国主義の「戦争策動」を許していると、公然と一方的に日本共産党を批判した。アメリカ占領軍は、その6月には中央委員会メンバーをパージし、機関誌の発行を禁止し、日本共産党を弾圧した。6月25日には朝鮮戦争が勃発し、日本はアメリカ軍のための兵站基地と化し、日本全土が戦時統制下に置かれた。

 コミンフォルムの批判が内紛、混乱にみちた分派闘争をもたらし、日本共産党は新しい綱領を採択した。それは、スターリンによる直接の指揮のもとに書かれたと言われており、「スターリン綱領」と称されている。この綱領は、中国共産党を権力に導いた戦略をわずかに修正したものにしかすぎず、日本の農業において半封建制度が事実上残存しているとみなしていた。しかしながら、日本においてこの分析は悲劇的なアナクロニズムに他ならなかった。

 この綱領の下で、軍事冒険主義が立ち現れ、混乱がさらに加速し、党と人民の結合は極度に弱体化した。[4]


[1] フィリピン共産党PKPは、クリサント・エバンゲリスタに指導された都市部の先進的労働者を基礎として、1930年11月7日に結成された。その当時、社会ファシズム論・全般的危機論・「階級対階級」戦術などコミンテルン6回大会(1928)路線が世界の共産主義運動に影響を及ぼしていた。フィリピン共産党の創立大会は、労働者農民ソビエト共和国の創設を目標とし、独立への唯一の道は労働者大衆による武装蜂起であると宣言した。この路線は、労働者階級をあいつぐ敗北へと導いた。

[2] コミンテルン7回大会は、ファシズムについての誤った評価に基づき、人民戦線路線(反ファシズム統一戦線)を打ち出した。この国際路線によって、とくに非ファシスト帝国主義が支配する被抑圧諸国の民族解放運動は、かいらい支配にたいする楽観的幻想を抱かされた。それゆえ、1938年のフィリピン共産党PKP第3回大会は、当時のケソン政府を進歩的であるという決議を採択した。さらにフィリピン共産党PKPは、かいらい政府の植民地憲法を支持し、地方で農村を組織していた社会党とまさにその年に合同したのであった。

[3] 1942年2月6日、フィリピン共産党PKP中央ルソンビューロー会議は、日本帝国主義、ファシスト侵略者に対して、人民軍をもって闘うことを決定した。かくして、同年3月29日、反日人民軍フクバラハップが創設された。フクバラハップの主要勢力は貧農で、農民軍はゲリラ戦で侵略者と闘った。地主が逃亡した村落では、フクバラハップが実権を握った。しかしながら、フクバラハップの創立宣言では、コミンテルンの人民戦線路線にしたがい、極東米軍との協調的活動をうたいあげていた。それ故、フィリピン共産党PKPとフクバラハップは、アメリカ帝国主義の帰還を歓迎し、1945年には武装解除の命令に従った。第二次世界大戦後、フィリピン共産党PKPは、アメリカ帝国主義の再来と農村部での半封建制の再興に対するイデオロギー的・政治的準備が出来ていなかった。1946年の選挙において、フィリピン共産党PKPは、民主連合を通して党を国民党か自由党のいずれかの単なる付属物に転化させることを、議会闘争の中心的政綱とみなしていた。

[4] フィリピン共産党PKPは、1946年8月における有名な農民運動指導者の暗殺直後に、従来の政策の劇的な転換の必要性を認め始めた。1947年にはフクバラハップが再建されたが、他方でフィリピン共産党PKPは、人民軍にたいする「鎮圧」作戦を進めるロクサス傀儡体制への全面協力を擁護したのであった。1848−9年には、路線転換をめぐる党内闘争が続いた。いわゆる「冷戦」が始まったとき、コミンフォルム(共産主義情報局)が創設された。コミンフォルム路線の下で、2年の内に全土一斉武装蜂起によって権力を掌握するという即席の軍事的勝利を目指す冒険主義が頭をもたげ、1950年1月の政治局決議で公式に採択された。同時に、フィリピン共産党PKPはフクバラハップの名称をHBMと改めた。かくして右翼日和見主義と冒険主義との矛盾が噴出した。


        2、第2の時期

   a)もう一つの転換期

 およそ1955年の時期は、日本の今一つの転換点をなしていた。日本の独占資本は朝鮮戦争による特需ブームで再興の弾みをつけ、日本共産党の誤りにも助けられ、戦後の労働者人民の戦闘性の高まりを乗り越えつつあった。日本資本主義は、長い高度成長と繁栄の時期にさしかかりつつあった。労働戦線では、総評(労働組合総評議会)が社会党左派の指導性のもとに強力な連合組合となり、賃上げを求める「春闘」を開始した。日米安全保障条約の下で米軍が居座り続けたが、日本はもはや占領下ではなくなった。

 政党政治の世界では、二つの保守政党が自由民主党に合同しただけでなく、左右の社会党が主要な反対政党として再統合した。自民党対社会党という構図は、「1955年体制」と称され、1990年代におけるその崩壊にいたるまで議会的政治闘争の基本枠組みとなった。

 こうした新しい状況の下で、1955年6月、日本共産党第6回全国協議会が開催され、指導部は「極左冒険主義」と軍事闘争路線を否定し、党の統一が再建されたと宣言した。しかしながら、1951年綱領の明白な誤りは否定されず、分派間の和平のために妥当なものと見なされた。こうした中途半端な自己批判と妥協は、中心的あるいは一般の党員大衆をひどい混乱に陥れた。

 1956年のソ連邦共産党20回大会、とりわけそのスターリンと個人崇拝への非難は、大きなショックを与え、日本や世界の共産主義運動に関する自律的・批判的思考、大胆な研究、歴史的見直しを促した。[5] さらに、1956年のハンガリア蜂起の衝撃の下で、知識人・学生党員たちは正統スターリン主義への批判を開始した。

 1957年に日本共産党指導部は、綱領の改定を約束し、新綱領草案を起草した。しかし、その草案は、1951年綱領のもっとも本質的部分を保存し、日本をアメリカに従属した発達した資本主義と規定し、直面する日本革命は社会主義革命ではなく、日本の失われた主権を奪回するための民族民主革命とされた。日本がすでに高度に発達した資本主義であるという事実にもかかわらず、二段階革命は、資本主義の転覆を任務としないばかりか、日本を帝国主義として認めもしなかった。この戦略的規定ならびに党の官僚主義的支配に対して、主要に二つの党内批判勢力が争った。一つは、グラムシやトリアッティに依拠した構造改革派であり、今一つは、後に共産主義者同盟を結成する学生共産主義者たちである。

   b)新左翼の誕生

 日本共産党は、ヨーロッパの共産党とは異なり、戦前における共産主義運動の分裂とはかけ離れた位置にあった。原則的な公然たる党内闘争が主要な党からの分裂へと至ったのは、1956年のソ連邦共産党20回大会とハンガリア蜂起の後に始めて発生したことであった。日本における新左翼グループは、スターリン後の日本共産党の党内闘争と国際共産主義運動の分岐を背景として形成された。

 1957年に結成されたトロツキスト同盟はごく小さなグループであったが、日本におけるトロツキスト運動の源流かつ後の新左翼の一源泉と見なされている。トロツキスト同盟は、イデオロギー・綱領志向の宣伝団体で、後に主として日本共産党出身の知識人たちによって創設された革命的共産主義者同盟へと姿を変えた。ハンガリア蜂起の衝撃の下で、革命的共産主義者同盟は、新たな党建設の前提として厳格な反スターリン主義路線の確立を強調した。

 他方で、(ブントとして広く知れ渡った)共産主義者同盟は、日本共産党からの最初の大きな分裂として、また日本共産党の官僚主義に対する学生共産主義者の反乱の産物として、1958年に結成された。正統スターリン主義に対するトロツキーの歴史的評価がブントを創設した学生共産主義者に明らかに影響を与えていたが、ブントそれ自体はトロツキー主義潮流と呼べないだろう。トロツキーの分析は、学生共産主義者たちが正統スターリン主義の呪縛から離脱する手助けとなったが、ブントには様々なイデオロギー的・理論的影響がおよんでいた。

 学生共産主義者たちは、1948年に結成された全学連をはじめ、活発な学生運動を指導してきた。1956−7年において、全学連運動はその精力を主として平和を求める大衆運動に傾注していた。日本共産党指導部は、こうした全学連運動の自律的傾向を快く思わなかった。なぜなら、学生共産主義者たちは党の路線と綱領草案に対する批判を先鋭化させつつあったからである。1958年6月、党中央官僚と戦闘的学生の衝突が発生し、党からの多くの学生の追放・除名がなされた。そこで、ブントが結成されたわけである。

 日本共産党(スターリン主義)と共産主義者同盟・革命的共産主義者同盟の間の主要な対立は、以下の点にあった。

 ブントも革共同も、日本共産党による日本帝国主義の否認、民族民主革命−二段階戦略に反対し、社会主義革命を擁護した。
 両者とも、世界の階級闘争を抑圧したスターリンの「一国社会主義」理論に反対し、世界革命を対置した。
 両者とも、フルシチョフの「平和共存」路線を批判し、世界のブルジョアジーとプロレタリアートの階級対決を強調した。
 両者とも、日本共産党の「平和的移行」路線−日和見主義的議会主義に反対し、暴力革命を擁護した。

 ブントと革共同の主要な対立は以下のようであった。

 革共同は、スターリン主義・日本共産党の「客観主義」と機械的唯物論に反対し、主体的要素を省みない客観的要素の強調のしすぎが共産党内に官僚主義と形式主義を生み出したと批判した。もっぱら初期マルクスに依拠して、革共同は「主体性論」と党組織内における人間的解放を志向した。
 ブントは、労働組合運動に埋没しすぎの経済主義として革共同を批判し、国家権力にたいする直接の政治闘争を強調した。革共同の「組織の前の綱領」「行動の前の組織」という見地に反対し、真空の中で党は建設できず、行動が先立つと対置した。

 1958年、59年には、革共同は2度分裂した。主要な分派である革共同全国委員会は、左翼反対派とスターリンとの闘争に敗北した点でトロツキーを批判した。後に第四インターナショナル日本支部の結成にいたる少数派は、「労働者国家無条件擁護、スターリニスト官僚打倒」をかかげ、革共同全国委員会は新しいスローガン「反帝国主義、反スターリン主義」を打ち出した。

 構造改革派の見地は以下のようであった。

 ブンドや革共同とともに、構造改革派は、日本を帝国主義とみなし、社会主義革命を擁護した。しかし構造改革派は、資本主義の新たな諸関係を解明し、現代資本主義の新しい諸条件の下で社会主義に接近する方法を生み出すことに関心を集中した。さらに、発達した資本主義の下では、プロレタリアートの「知的・道徳的ヘゲモニー」によって社会の構造的変革を深化させ、民主的な改革や「陣地戦」によって社会主義に接近できると考えた。


[5] 1956年ソ連邦共産党20回大会において、フルシチョフはスターリンの「個人崇拝」を非難し、平和的共存、平和的競争、平和的移行を提唱した。この新しい路線の影響を受け、フィリピン共産党PKPは、1957年の選挙においてエリート民族主義を支持した。

[以下、続く]

c)安保闘争

d)分裂と再編成

e)嵐の1960年代後半

3、第3の時期

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