津村 洋(『国際主義』編集会議)
私の「協議会準備会の発足にあたって 10・25会議に向けての意見」(『国際主義』29号、1998年秋)に対して、橋本さんから批判的意見がよせられました。同じく29号に掲載した「『協議会準備会の発足にあたって』への異論と補足(橋本里子)」です。
以下、橋本さんの批判に応え、「異論と補足」への返事を簡単に述べたいと思います。
「何よりも、諸グループが党派性を鮮明にする義務がある」という私の主張にたいして橋本さんは以下のように疑問を呈しています。
「その場合、どこまで鮮明にする必要があると、あるいは、どこまで鮮明にできると考えるのでしょうか。そのグループの主張は機関紙などで主張されてきていると思うし、わかりやすく明瞭に説明することなど出来るでしょうか?順番に細かい点まで、掘り下げていけば、個人個人でも違うはずです。」
一般に政治グループの党派性は、綱領・規約や決議などとそれに基づく実践のうちに現れます。その意味で一つのグループとしての結集軸や政治性格を表現するものが明確でないと、そのグループはとらえどころのないものとなります。つまり綱領・規約・決議(あるいはそれに準ずる文書)が公開されていることが、党派性を鮮明にしうる第一の条件だと思います。
さらに言えば、これだけでは不十分です。そうした組織的文書が実践と乖離して形骸化しないために、その採択や改訂の過程が公開され、実践的な検証にふされる必要があります。さまざまな実践場面を踏まえて、諸個人がいかなる意見を表明し、それぞれの文書にどのような立場をとっているのかが目に見えることです。つまり、組織的文書をめぐるグループ内外の論争が積極的に公開されることが第二の条件です。
もちろん、あるグループ・組織内の諸個人に意見の相違があるのはあたりまえです。その差異が、共通の基準と照らし合わせて、あるいは公開の論争を通じて鮮明になり、評価できるようにするために、以上のような観点が必要不可欠であると思います。
橋本さんの次の主張に賛成です。
「革命運動において、ひとつの正しい理論や路線が予め定められ用意されているわけではありません。そのことに執着しすぎると、現実の情勢に対応できず、空周りしてしまいます。」
ただし、私の「党派性を鮮明にすべき」という主張は、「革命運動において、ひとつの正しい理論や路線が予め定められ用意されている」ということを含意していません。そのような評価にたっている主張ではありません。どうやら問題は以下の点にあるようです。
「私には、党派性を鮮明にするということは、ドグマを主張するということに思えてなりません。」
確かに、そのように「思える」という点には、それなりの歴史的根拠があり、理解はできます。これまでの共産主義運動には、党派性をある種のカテキズム(教理問答)とし、踏み絵として押しつけるスターリン主義的な見地が横行していたことも事実ですから。
しかし、この「党派性を鮮明にすること」=「ドグマを主張するということ」というシェーマには賛成できません。この図式そのものが、ひとつのドグマに思えてなりません。
なぜなら、あるグループの政治性格、つまり党派性があいまいもことしていれば、すべての成員が共通の基準をめぐる異論や少数意見を提示する対等な政治生活が阻害されるからです。つまり、政治性格があいまいであればあるほど、共同の基準にとってかわる人格的代位が進行し、経験のある特定の個人が権威的にグループの党派性を代弁する構造をとるようになってしまいます。このような官僚主義的な個人のドグマに委ねられる構造を打破するには、人格的な要素と峻別された共通の基準を明確にすることがどうしても必要と思います。
以下の橋本さんの主張には全面的に賛成です。
「今日のように左翼戦線が壊滅的ともいえる状況の中で、どの潮流も十分で正しい理論、路線をもっているとは言えないはずです。もう一度、マルクス主義とは何ぞやという根本的な所からの見直し、再検討が必要だと思います。分岐した諸潮流、政治グループの整理、統合だけでマルクス主義運動の再生、主体の再建をはかっていくことは無理です。不可能です。」
左翼諸潮流が部分的な積極性を分有しながらも、それぞれ深刻な限界を有してきたこと。その意味でマルクス主義の再構成を根本的に目指すこと。その上で、諸グループの統合を越えて大胆に前進すべきこと。まったくその通りだと考えています。
さらに、次の点についてもまた同感です。
「今の日本における左翼の現状は惨澹たるものです。革命党、前衛党を自称する組織が、マルクス主義運動を構築しようとしたけれど、労働者、大衆から支持を受けず、瓦解していったというのが結末ではないでしょうか。何故支持を得られなかったのかについては、厳しく総括する必要があると思います。」
こうした評価・総括視点そのものが、いくら概略的なものであっても、橋本さんなりのひとつの党派性を押し出す実践と思えます。橋本さん同様に、この点についての評価・総括をどうするのか、これが党派性を鮮明にする最大の眼目となるべき点であると考えています。
上述の引用部分に続き、橋本さんは総括視点を提出しています。
以下の橋本さんの主張に一面では賛成です。
「私は、党を名乗る人たちが、独自の理論を押し付けようとしたことに原因があると思っています。人は、他者からの押し付けでは、動きません。人は、自ら、正当で、整合性があると感じる方を選びとります。労働者大衆とともに、運動をつくっていくというのでなければいけないと思います。労働者大衆を指導しようとは考えるべきではないと思います。」
指導部と一般党員、党と党外大衆の関係を、さながら学校教育のような単純な指導−被指導の関係として捉え、受動性を押しつける構造が、これまでの共産主義運動に根強く存在してきたと思います。つまり、指導部にたいしては自分を導いてくれる指導の押しつけを期待し、「下部」や党外にたいしては指導を押しつけるという党員を再生産する構造です。だが、軍事的な前衛概念を党に持ち込むスターリン主義的なかかる組織観と決別すべきだと考えています。その意味で、上述の総括視点には共感できます。
ただし、平板で一方的な「指導ー被指導」の枠組みを受け入れているものにとっては、押しつけは押しつけと実感されず、当たり前の政治生活と化し、その限りで人は動き、精力的な活動が存在しえます。スターリン主義党であれ、カルト的宗教団体であり、その種の献身性が事実としてあるわけです。したがって、問題は前提となっているパラダイムそのものを転換することです。
しかし、その転換は、「労働者大衆を指導しようとは考えるべきではない」という方向ではまずいと思います。
なぜなら、どのようなグループ・党であれ、その政治見解・政策・方針において指導性を争わないものはないからです。たとえば、トゥリー型へのアンチとしてある種の流行になっているネットワーク型あるいはリゾーム、セミ・ラティス型の組織タイプにおいてすら、指導性は登場しないわけにはいきません。
したがって、指導しようとは考えないことは、指導の中味の正否をめぐる公然たる検証を回避し、隠然たる官僚的な指導に席を譲る結果にしかならないと思います。
むしろ逆のベクトルで考えるべきです。労働者大衆あるいは諸個人もまた党を監視し、指導するという方向で転換を図るべきなのだと考えています。より広範で多様で豊かな労働者大衆の実践に比して党の立ち後れは絶えず起こりますから、硬直した「前衛」概念を棄て、大衆的な個々人による批判や意見を党にたいする監督・指導として受け止めることが必要不可欠になります。党内外を機械的に寸断するような発想を克服し、党外からの指導を積極的に促し、公開の議論を展開していくことです。
橋本さんの「異論と補足」自体が、私たちのグループIEGにたいする批判として、ひとつの指導にあたります。その意味で、以下の意見に賛成です。
「広範な運動作り、労働者が共産主義運動に主体的に参加できるような新たな理論作りが、党派、、無党派、を問わず要求されていると思います。」
このことを協議会の活動として前向きに実践していかねばならないと思います。
ここで、もう一度党派性の問題に立ち戻りましょう。
橋本さんは次のように疑問を提起しています。
「「党派性」というのは、一体何なのでしょう?「革命理論」「革命路線」でしょうか。協議会は党派性を持たなければならないのでしょうか。」
党派性については、上記1のところで簡単に説明したのでここでは繰り返しません。革命理論、革命路線あるいは党派性という言葉にこだわるつもりはありません。ようするにあるグループがあれば、他のグループではないそのグループ自身の基本的な政治性格、結集軸を何か有するのは当然のことだと思うのです。問題はそれを明瞭に提示しているか、あるいはそういう努力を積み重ねているかどうかだと思うのです。
たとえば、協議会準備会の個人からJVP(人民解放戦線−スリランカ)への批判が提出されています。あるいはまた、IEGのウエッブ・サイトにも、JVPに対する批判的意見が電子メールで届いています。これはすばらしいことだと思います。JVPは、私たちよりももっと前に自分達のウエッブ・サイトを構築し、JVPの党派性を世界中に説明・公開しているからこそ、こういう批判を促し得たのです。もしJVPの政治性格が外部からあいまいなままであったら、具体的な批判をひきつけようもなかったのですから。
そのような意味で、私が何よりも主張したかったことは、協議会云々の以前に、協議会を成功裡に形成しようとするなら、諸グループがまずそれぞれの党派性を鮮明にする努力が必要だということです。そうでないなら、お互いの、あるいは諸個人からの各グループへの率直な批判、論争が阻害されるからです。グループ・諸個人の別なく互いに批判・論争が積極的に展開できないのなら、協議会の形成は成功するわけはないし、破産のくり返しになるだけです。
あるいは正直にいって次のようにも考えています。
いろいろと論議を積み重ねてきますと、各グループ内の共通性より、グループを越えたあれこれの諸個人との共通性を実感することが多々あります。それは、一面で各政治サークルの党派性の不鮮明さにも規定されており、また他面では自然な現象でもあろうと考えています。
だから、ある意味では、グループ・諸個人間の流動性、離合集散はもっと自由に進んでいいはずです。これが、諸グループ・諸個人の協議体から一つの党における同一意見者のグループ・分派へと転化する際の、ひとつの重要なポイントになるはずです。現に存在する諸グループへのある程度固定的な帰属意識を溶解し、重要な係争問題ごとに自発的にグループ・分派を形成し、多様性を包括する党の団結を守るという政治生活へ移行する課題です。協議会を形成するということは、このような矛盾の揚棄を自覚的にひきうけるということです。
矛盾を揚棄するためには、まず矛盾を展開させ、つきつめることです。諸グループそれぞれの政治性格はどういうものであり、今のグループとして存在する意義はどこにあるのか?この点をお互いにつきつめて考えることから出発すべきだと思います。
たとえば、「ワーカーズとWorkersはどこがどう違うのか?だいたい、英語でどう区別して紹介すればいいの?」といった(他ならぬ私の)グチのレベルを越えて、議論はつきつめられる必要があるわけです。なぜ、IEGが独自のグループとして別個に存在する意義があるのか?なぜ、建党協やワーカーズ、Workersに結集しないのか?などなど、党派性を鮮明にする努力とはこういう問題意識をも真剣につきつめることでもあるわけです。
橋本さんは、こう述べています。
「共産主義運動は、労働者自らが創っていくものであって、品定めをするように、党派を選ぶものではないと思います。」
この点はむしろ別方向から考えています。議会選挙であれ、飲み屋での政談であれ、人々は政党・党派をそのつど支持・賛同したり、反対・拒絶したり、品定めし選択しています。
政治グループであれ、協議会であれ、党であれ、労働者大衆からの批判・意見を呼び起こせない、つまり品定めされないようでは社会的な存在意義がないと思っています。
最後に、次の引用部分について。
「私は、党派性をもつ革命政党を先につくって、そこに労働者を結集させるというやり方では、労働者、市民活動家は、結集してこないと思います。労働者、市民の運動は、さまざまな課題があり、多元性、多様性を持っています。それに対して、党が直接、方針を提起し、指導出来ると考えることは、傲慢であり、党の中の人間も自ら労働者であるという立場を忘れ、官僚化していく道を開くものだと思います。」
協議会の形成はささやかな一歩で、実践的な領域としてもごく狭い範囲に限定された存在です。したがって、多様な諸課題をめぐっては、協議会外からの指導を受けるという面がどうしても主要になると思います。
そのためにも、協議会の政治性格を明瞭にし、公開し、労働者大衆、諸個人からの批判・意見をよびよせ、外部からの指導にきちんと向き合い、対処できるスタイルを形成していくことが必要であると思います。
以上、橋本さんの展開にそった個別的な意見の列挙となってしまい、まとまりのない返事となってしまいましたが、よろしくご検討下さい。
[1999/01/20]