全ての貧困・抑圧・支配・差別・隷属・地球と人間のエコロジー的危機の根源は、資本主義にあります。この資本主義を打倒し、自立した生産者大衆の自律・自治・協働と多民族・多文化の共生するオルタナティブな社会の創造と、この革命を大衆自身の自己解放として発展させるべく闘う二一世紀の「新しい質の党」の創造をめざして―
ここに、私たちは仮称「コム(略称)」を発足し、本格的な協議と行動を開始します。
現状を憂え、志を同じくする人びと、資本主義の根本的変革を求める労働者民衆・活動家の多くが、この「コム」の発足に賛同し、協議と行動の輪に積極的に参加されることを、心より呼びかけます。
一、世界史の別れ道にたって―二一世紀へ
現代資本主義との再勝負を挑む決意を固めるとき
もう間もなく二一世紀の扉が開こうとしています。
この世紀末の今、世界的不況と金融危機の中で、リストラ・倒産による大量首切り、強制配転、賃金・労働条件の切り下げの嵐が吹き荒れ大失業の時代が始まっています。
銀行救済には〔泥棒に追銭〕の湯水のような公的資金(税金)を投入する一方で、国家財政の赤字解消を理由に、消費税のアップ、健康保険料の引き上げ、医療・年金負担の増加などが打ち出され、労働者民衆の生活は圧迫され続けています。農業の解体、家族の崩壊、荒廃する人間関係と教育、ゴミの山、増え続ける汚染食品…、民衆の中に老後や未来への不安がつのっています。
加えて、倒産・リストラ企業の労働者の中から自殺者、住宅ローンのための一家離散、夜逃げ、自己破産が増え、教育費・学費の払えぬゆえのこどもの中途退学者が増え続けるなど、今迄にないような悲惨な現実が日々生起しています。
何よりも危険なことは、わが国の政府が日米安保体制の日米核軍事同盟への再編・強化の下に、沖縄民衆の「平和の島」への願いを踏みにじって米軍基地を強化・高度化し、「朝鮮有事」を挑発しつつ、日米新安保ガイドライン・「周辺事態法」など戦争立法を今国会で制定し、新たな戦争策動の準備を急ピッチで進めていることです。
更に支配体制の側は、こうしたことの結果として自然発生的に起こってくるであろう労働者民衆の反撃を、労働法制の改悪、「組織対策法」の制定で先行的に解体していく攻撃をしかけてきました。
「日の丸」「君が代」の法制化の動きや、在日朝鮮人、外国人労働者への排外主義的差別の煽動もこうした一連の動きと一対のことに他なりません。
これが、世紀末の今、わが国の私たちが直面している状況です。
まぎれもなく、私たちは大きな転換期に際会しており、いかに生きるべきかの選択の別れ道に立たされているのです。
こうした現状の根にあるものは何なのでしょうか。
一九八九年の世界史的転回(天安門事件、ベルリンの壁の崩壊)は、九一年には東西冷戦の終結、ソ連邦の崩壊と「社会主義」諸国体制の崩壊、アメリカの湾岸戦争をもたらし、それと共に資本主義世界は、世界大不況(ドル体制の動揺)に入り込みました。こうした新たな時代が始まる中で、日本の進路にとって決定的な選択が迫られることとなったのです。
とりわけ、このハ九〜九一年の世界史的転回と軌を一つにして、冷戦時代に培ったコンピュータなど軍事技術の経済への転用をもってする高度情報技術革新の 「発展」は、アメリカを基軸に多国籍型企業中心の資本主義の「グローバリゼイション」「メガコンペテイション(大競争)」の時代を造り出してきました。
このグローバリゼイションの進行は、資本の自己増殖・自己運動によって、周辺諸国といわず、農村・家族などあらゆる共同体を解体し尽くし、労働力や自然環境だけでなく全てのものを商品化(人間の臓器まで)し、人・モノ・カネ・情報・文化・公害などが国境を越える状況を生み出してきました。
こうした結果、「北」の中枢諸大国において、「飽食」の中での不況・失業の増大、都市の荒廃と国民国家・議会制民主主義制度などの制度疲労があらわとなり、「南」の第三世界周辺諸国において、貧困と荒廃が拡がり、難民の増加、クーデター、暴動、言語・風習・文化をめぐる地域的内乱が噴出するに至っています。
と同時に、資本のグローバリゼイションは、この「南」「北」を問わず、総体として大地・森・大気・水といわず多様な生物の生態系と農林漁業資源・地球環境の破壊、人間の心・人間の人間的関係、労働や労働現場を破壊的に変え、ダイオキシンや環境ホルモンの問題にみるごとく人間の身体という「内なる自然」をも破壊し、次世代の生存と社会の再生産そのものを危うくする人類史的危機を生じてきました。
こうして今、これらの「発展」の臨界点・飽和点に達して、「資本そのものが資本にとって制限」となるような根本矛盾の発現が、東アジア、香港、ロシア、ブラジル、中南米を席巻する信用恐慌の始まりとして発現しています。
九九年、資本主義は経済的には、ドルとユーロの二極通貨制への移行を開始し、日本の金融資本の「円」の第三極化構想への踏み出しと合わせ、NAFTA、EU、APECの三極の経済統合と、米・英主導、独・日協力の国際反革命体制への政治・軍事上の支配体制づくりも急ピッチで進んでいます。新年早々のブラジルの金融危機の爆発は、これら多国籍企業形態をとった資本の価値増殖活動のグローバリゼイションを、通貨と金融面で保障してきた世界基軸国アメリカ資本主義のバブル的経済の破綻、ドル暴落、ドル本位制の世界史的崩壊をももたらしかねない状況を示しています。
それはそれで「世界のならず者・アメリカ」が、イラクへの攻撃やユーゴへの空爆等の暴挙と同様、北朝鮮への「核疑惑」を利用した戦争挑発等々、手段を選ばぬ攻撃をとる可能性を含めて予断を許さぬ状況が生まれてきています。
世界市場恐慌の足音が聞こえ始め、新たな戦争がアジア・太平洋全域に向かって仕掛けられる時代の到来と、私たちが認識するところです。
冒頭に述べた勤労者民衆の現在の困難の根本にあるものは、こうした資本のシステムそのものの構造的矛盾・危機に由来するものであり、資本がその危機を勤労者民衆の犠牲に転化しているその結果といえます。
資本主義の根本的危機の到来は、客観的・一般的には労働者民衆の反撃の好機を意味します。しかしながら、労働者民衆は総体として後退戦を余儀なくされており、反撃のための新たな革命主体は未形成です。
もし仮に、世界史的主体の大後退とその主体再生の困難にも規定されて、この迫り来る資本主義の破局的危機の「好機」をつかみ、これを打倒することができないならば、資本主義はひとりでにつぶれるというわけでなく、恐慌という過程(新しい型の戦争の可能性とあわせて)を通して、資本自体の再編と大規模な集積・独占を進め、より腐朽した「高次化」を遂げていくに違いありません。
すなわち『共産党宣言』でマルクスがいみじくも予言したように、両階級の「共倒れ」ともいうべき人間と地球的自然の滅亡の淵へ。
だからこそ現代資本主義の迫り来る破局の深さ・速さとの関係で、これを倒す主体の再生が急がれるのです。
このように見るならば、八九〜九一年以来の現在の大転換期は、まさに二一世紀を地球と人間の緩慢な死に向かう世紀とするのか、それとも産業革命以来の、更にはコロンブス大航海以来の、近代文明史総体を問い直す希望のそれへか、の大きな分かれ道を決する時といえます。
その意味で、すでに二一世紀はこの時に、刻々と準備され始まっているのです。
今、私たちの一念発起ともいえる協議と行動の開始も、こうした問題意識に立って、時間との競争の中で、いかにして新しい主体再生に向かっての扉を開けるための準備の時とするのか―そのために力を合わせようではないかということに他なりません。
二、私たちの総括と立つべき共同の出発点
「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」
私たちが考える未来社会は、ある学説やある政治指導部や、自ら正統と自称する指導者たちが説教する「ドグマ的」真理に従ってつくられるものでもありません。そしてまた何らかの党が大衆に代行して進める善政なのではさらさらなく、また外国の経験をストレートにひきうつして実現できるものでもありません。
この意味で、私たちの考える希望の革命とは幾百千万の大衆の行動であり、社会主義とは本来資本主義と闘う勤労者の創造物です。
私たちは、自明といえばあまりに自明といえるこのことを、私たちの総括の核心の一つとして、新たな主体の再生―党的主体の創造を問題にする際に、確認し、強調しておきたいと考えます。
しかしながら、先にも見たように、自己解放の闘いと自覚し、資本主義に代わる新しい価値と文明原理・展望をもって、現代資本主義とブルジョア独裁権力打倒のために闘う革命主体の勇姿はまだあらわれていません。
この主体の未形成の困難の根底・背後には次のような事情があると考えられます。
八九―九一年の世界史的大激動の中で、変貌を遂げ、高次化して延命しようとしている現代資本主義に未来はないということがはっきりしても、「資本主義もダメだが、社会主義ももっとダメだったではないか、革命や党はもうコリゴリだ」という風潮を、労働者民衆は自他共に打ち破れないでいるのです。否むしろ、ロシア十月革命に始まった、資本主義の対抗価値であった共産主義を志向する二十世紀の現実の「社会主義」諸革命の無残な変質と崩壊が、労働者民衆の中に深い衝撃と沈滞、そして思想的混迷をもたらしているからです。
こうした意味において、世界史的大転換点として八九〜九一年に刻印されている歴史的問題とは、産業文明中心、西欧中心の発展史観を特性とする資本主義の近代イデオロギーの行き詰まりとそのシステムそのものの危機であると同時に、他方からすれば、この資本主義世界システムに抵抗し対抗してきた「マルクス・レーニン主義」による社会主義のイデオロギーと運動の(スターリン主義的変造による)挫折と敗北にほかならないのではないでしょうか。
このように把握するならば、これ以降の現代世界に生起し、また生起しつつある諸問題・諸闘争の未来への発展(そこにはらまれている新しい価値・主体・展望への全体性の獲得)のためには、すでに「崩壊し、挫折した」レベルの旧い「社会主義」「マルクス主義」では解くことも脈絡をつけることさえ出来ないといわねばなりません。
だからこそ、主体の未形成を問題とする私たちにとって、このニ十世紀の現実に崩壊し、挫折した「社会主義」の総括が問われ、現代資本主義批判の具体的状況の具体的分析を通じてマルクス主義の新たなる深化と二一世紀的理念・文明原理・時代展望を創造することが何よりも緊要の課題とならざるをえないのです。
私たちが昨年、『共産党宣言』 一五〇周年記念集会を機に、『宣言』のインターナショナリズムの精神に立って、この一五〇年間の闘いと挫折の歴史的経験の主体的総括を通じて、マルクス主義を深め、新たな理念と革命、その主人公たる勤労者民衆の団結を促進し、追求する「党」の準備のための協働を始めたのも、こうした問題意識に立ってのものでした。
『共産党宣言』以来一五〇年、共産主義を志向する国際プロレタリアー卜の闘いの歴史は、パリコミューンの経験、マルクスの『資本論』等によって深め、発展され、ロシア十月社会主義革命と中国反帝革命をはじめとする今世紀の諸革命によって、継承すべき革命的遺産も、変革し乗り越えてゆくべき否定面も、ますます実践的な教訓を豊かにしてきました。
私たちは、こうした国際プロレタリアートの共産主義者同盟、三つのインターナショナルの革命的闘いの「伝統」、ソビエトロシア革命、中国反帝革命をはじめ民族解放諸革命のその闘いの「伝統」を継承し、発展させる立場にゆるぎなく立つことをはっきりとさせなければなりません。
そして、これら国際プロレタリアートの限界を、自らの課題として受け止め、これを乗り越えていく努力をしたいと考えます。
こうした見地に立って、二十世紀におけるいわゆる「社会主義」の崩壊と挫折・総括について、私たちは次のように考えるものです。
客観的には、ロシア十月社会主義革命が世界資本主義の周辺でおき、その後進性やヨーロッパ革命の挫折による国際的孤立、資本主義列強の干渉と包囲の中で困難を有していたことを私たちは認めています。しかしながら、その変質・崩壊・挫折の根拠はこれらの外因だけでなく、内因(誤り)にもあったことをはっきりさせなければなりません。
―その誤りの中心・核心点は以下の諸点にあったと考えます。ブルジョア的私的所有の廃止のための生産手段の社会的・共同的所有の課題が、「国有化形態」と「計画経済」一般に切り縮められる、いわゆる「国有化社会主義論」の誤り。インターナショナリズムの放棄と一国社会主義論の誤り。共産党が国家と癒着し、革命の主人公であるプロレタリアート大衆を代行し、革命の大衆的創造物であった下からの自治権力が、「共産党一党独裁」にすりかえられ、憲法にこの「共産党の指導」と「マルクス主義が指導思想」と法制化された誤り。
そしてまた、こうした誤りの根にある理論的問題として、スターリンによる生産力主義や政治的過渡期とプロレタリアートの継続革命の放棄、組織論上の官僚主義的中央集権制、分派の禁止、公開の原則の否定や労働者民主主義の否定などの誤り。
この同じ誤りの根は、東欧・中国革命へ、更には現在の北朝鮮にまで波及し、共通するものとなっています。
と同時に、問題の根深さは、公認の既成共産党はいうに及ばず、スターリン主義に抗して誕生したいわゆる反スターリン・マルクス主義の「新左翼」の思想と体質の根本においても、こうした誤りから決して自由ではなかったこともみておかねばなりません。
つまり、こうした総括から導かれる問題の核心は、生産者大衆が、本来の社会の主人公として自らの労働と生産・分配・流通・消費・廃棄に至るまで、その万般のことを形式としてではなく、実態として自己決定し、自己管理しているのか、つまり自治しているのかどうか、ここにあります。
そして私たちが党を考えるという場合にも、『共産党宣言』の精神と、これまでの総括と教訓を踏まえるならば、あくまでもそれはプロレタリアの一部分であり、そのプロレタリア大衆の自立・自律・自治の強化・(階級形成とブルジョアジーの支配の転覆・自治権力の獲得を通じて、旧生産関係を廃止するとともに階級そのものを廃止するに至るまで)と発展のために闘い、国家・階級とともに党も消滅することをはじめから自覚した、志に結ばれた任意の結合体なのだということです。
こうした立場・態度は、これから現代資本主義と再勝負を挑む革命と新しい党を共に考える上で、最低限の共通の出発点であろうと私たちは考えるのですが、いかがでしようか。
勿論、こうした立場・態度を確認すれば、そうしたものが自然にどこかに出来るというものではありません。そしてまた、ただちに私たちがその「党」となることができるとも考えていません。
どうしていけばそれが可能なのか、更にもっと現実の実践と結び付けて、共に考え、創意しなければなりません。
そのことを、創られるべきこの仮称「コム」で本格的に協議したいと考えます。
三、何を協議し何を考え行動するのか
(性格、目標と課題、団結の新しい作風)
私たちがめざすのは、人類史の中に脈々と流れてきた共産主義への志向を受け継ぎ、一五〇年前、近代プロレタリアートの初めての「鬨」の声となった『共産党宣言』の共産主義の理念を復権し、日本の労働者民衆の現実に結び付け、創造的に現代に活かすことです。
共産主義の理念の復権とは、生産者階級の自己解放の継続革命過程を通じて、資本主義を廃絶し、男女・諸民族が真に自由で自律した存在となり、その生のあり方の差異や多様性が差別や抑圧の根拠とならないような「個人の発展が万人の自由な発展の条件となるような協同社会(アソシエーション)」をめざすということです。
そしてインターナショナリズムの精神にたち、この革命をこれら大衆自身の自己解放として発展させるべく闘う「新しい質の党」をめざすということです。
勿論、こうした共産主義の理念の内容、かつ方法としてのマルクス主義のこれまでの歴史的限界とその自己改革の必要を含めて、そのこと自体が大いに討論され、深められるべきであることは、いうまでもありません。ましてや、「党」という場合、いつの世にも通用する万古不易の党はなく、現代の資本主義と闘い、革命の新しい主体、革命の新しい内実にふさわしい質として形成されるものでなければ、革命と解放の役には立たないということも、いうまでもありません。
だからこそ私たちは、旧い考え方、旧い綱領(その旧い革命観・組織観)をそのままにして、まず党ありきとしてその内実も実態もないのに、直ちに一つの「党」になろうというのではありません。
当面、協議し、協働するという形式で、現代資本主義と再勝負を挑む労働者民衆の革命の理念・路線の内容、その党の新しい在り方の創造のために集まり、共に行動を開始したいということです。
こうした目的をぼかして広く構えていく方が、昨今の革命や党への大衆的反撥・アレルギーのある中ではよいのだという意見もあるかもしれません。そうした意見があってよいと思います。しかし私たちは、現に様々にある協働の場との誤解や混乱を避けるためにも、それらとは性質の異なる政治次元・党的水準の性格と目的をもつことをはっきりさせたいと考えました。
それは同時に、自らの志をはっきりさせることで、革命や党への反駁や批判の根拠となっているこれまでの誤りをわが事として引き受け、それに身をさらす中で、労働者民衆の点検を受けつつ、この仕事を成し遂げていくことの方が誠実なことではないだろうかと考えてのことです。
これが仮称「コム」を創る私たちの目標と拠って立つ思想的立場です。
このように私たちは、新たな質をもった「共産党」をめざすが、直ちに結党するのではなく、従って仮称「コム」の発足を「一つの党」の発足とは考えておりません。
しかしこのことは、そのような党の創出を彼岸の彼方に置くということではさらさらなく、むしろ逆に、この現実を直視するがゆえに全力を挙げてそうした方向を共同して追求するということです。私たちは当面、二年を目処に、より確たる方向を展望して、以下の三つの課題―
(1)現代資本主義を打倒し、それに代わる解放への新たなオルタナテイブなプログラムを「二一世紀の『新共産党宣言』」として獲得する緊急課題とそのための協議。
(2)共同行動
(3)革命塾の共同開催
―を柱に、協議、協働してゆくことを提案します。
この途方もなく巨大にみえる緊急課題を前にして、次のことを私たちは想起します。一五〇年前に、名もなきプロレタリアたちが、マルクスらとともに四七年恐慌と四八年革命に対応すべく『党宣言』を獲ち取り、更には約一〇〇年前の二十世紀への端境期に、ロシアのプロレタリアたちが、レーニン・トロツキーらとともに帝国主義段階へ移行した資本主義と闘う革命綱領を獲得し、ロシア十月革命をもって二十世紀における社会主義革命の新しい扉を開いていったことを。
そしてまた一向一揆から秩父蜂起や足尾鉱毒との闘いなど労農解放運動の日本の歴史に連綿たるその先人たちの闘いの歴史に学ぶときではないで しょうか。
勿論、現在の労働者民衆が今日革命の対象とすべき資本主義は、一五〇年前の産業資本主義の確立期のそれとも、一〇〇年前の帝国主義段階のそれとも異なり、資本の運動の原理的本性に変わりないものの、高度電子情報技術の発展をバネとした「グローバリゼイション」としてより一層腐朽的に高次化し、変貌を遂げつつある現代資本主義なのです。
資本のグローバリゼイションとは、旧来の大量生産・大量消費の資本主義システムの行き詰まりと危機を根拠に、生産と労働過程、福祉国家やブルジョア民主主義制度を含むそれ自体の全社会的政治的構造と階級関係の根本的大改造を資本の側から企てる労働者民衆への階級的挑戦です。この大変化を遂げようとしている階級関係・全社会的・政治的構造のマルクス主義の方法による批判的・実践的分析でもつて、労働者民衆の側からのこれと対抗する階級闘争の構想と展望を創り出さねばならないということです。
この課題をはっきりとさせないで、『共産党宣言』やボリシェビキ綱領、コミンテルン綱領などこれまでの革命綱領を焼き直しすることで二一世紀に臨むならば、労働者民衆は変貌しつつある現代資本主義とは勝負にならず、ましてそれに代わる新しいオルタナティヴな未来を展望していくことは出来ないでしょう。
二十世紀において世界と日本の労働者民衆は、ただただソ連や中国などの革命が変質して、崩壊していくのを手放しで見ていたのではなく、そうしたものと闘い、マルクス主義に立つ社会主義のパラダイムの限界や欠落点をつき出し、「異議申立て」をし、自ら世界史における変革主体として豊かな未来への構想をその闘いの内部に創り出してもきました(日本で一つの例を挙げれば、沖縄民衆の二一世紀構想や「市民の憲章」など)。
それらは、世界と社会の「周辺」からのフェミニズム(女性)・エスニシテイ(民族問題)・エコロジー(環境)の問題提起であり、同時に高度化した資本主義の足下からの「労働」の変容を問題とする労働者の様々な試みなどです。
例えそれらが部分的であるとはいえ(この現実の社会の中に形成されつつある新しい芽とその発展を含めて)、こうした大衆的闘いの中に肥胎している「未来」を「発見」することのできないままに、本当の意味で新しい革命のプログラムはつくることができないといわねばなりません。
以上の見地に立って、ではどんな理論上の問題が協議されるべきでしょうか。
問題を列挙してみます。
第一 ―現状―現代資本主義の新たな変容と現状について。
日本社会の矛盾と諸矛盾の構造(日本社会の発展段階と階級諸関係―新しい革命の客観的・主体的可能性の発見。現代日本の国家・統治構造の特質、日米安保体制と駐留する米軍の存在などアメリカとの関係。天皇制廃絶の課題。憲法九条問題。農業農民問題。「日本国家」の「単一民族国家論」の擬制と他民族抑圧・侵略の現状的性格―在日韓国・朝鮮人の諸問題。アイヌ、沖縄、部落などの諸問題。これまでの「労働者階級概念を含む主体概念の再検討」)。
第二 ―内外の革命運動の総括と教訓とその克服の方向について。
(二十世紀において 「社会主義」がなぜ崩壊したのかの総括だけでなく、もう一つの総括「二十世紀に民衆は、何を闘い、何を構想し、創造し、蓄えてきたのか」について。特に工コロジー、ジェンダー、エスニシティ、反差別、人権、テクノロジー批判、対抗文化、意識革命など。)
第三 ―新たな社会主義革命の構想・展望とそれを推進しうる「新しい質の党」について
(インターナショナリズムと日本の闘いの革命的伝統との結合。世界とアジアの革命と「日本」革命の関係。今後の展望・その権力形態、いかなる党かの党観・組織原則、対抗文化形成、「統一戦線」、過渡期の諸政策など)
第四 ―新しい社会主義革命への接近・移行形態の発見・創出について。
(ブルジョア民主主義批判と新しい民主主義の再定義。女性・沖縄・環境など新しい社会運動の提起している諸問題、新しい労働者運動の再構築など)
こうしたテーマを協議する上で、本年四月に発足されようとしている「アソシエ21」などにおいて、資本主義批判に立つ学者・文化人などの理論的営みと協働しつつ、その成果から学ぶことが重要だと考えています。
すでに何度も繰り返し確認してきたように、私たちのめざす社会主義は、資本主義と闘う労働者民衆自身の革命実践の創造物です。
とするならば、私たちはこれまでのべてきたような目標・課題を全力をあげて追求するとともに、当面新ガイドライン安保に反対するなどの緊急政治課題において、反失業等の闘いと労働者運動の再構築において、創造的な統一戦線形成のための闘いにおいて、現実の労働者民衆の闘いの発展のための共同のとりくみを積極的に追求するのは至極当然のことと言わねばなりません。
私たちは、現実との結び付きなしに、大衆的闘いの中に胚胎している「未来」を発見することはできません。そしてまた、その新しい芽の発展として革命のプログラムを創る以外に生き生きとした綱領は獲得されないからです。
また、共同行動を通じて、「コム」の内部はいうまでもなく、労働者民衆の闘う仲間の中での信頼関係を創り出すことが、協議の中で生まれてくる意見の不一致を前向きに解決していく上で重要なことだからです。
この際、参加グループ・個人のこれまでの経験・経緯・置かれている諸状況からくる活動分野の多様性や狭い意味での実践上の有無・差異をめぐって、直ちに「不信」としたり、行動の統一を強制するようなことは、こうした協議・協働の事業において互いに戒めるべきであることはいうまでもありません。
互いの独自性・自発性を尊重し、「多様なものの承認」の中での団結・合作の豊かさを目指さねばならないと考えます。
革命塾の構想・目的は、資本と国家との日々の闘いと結び付けて、「塾」の形式で、支配体制の側からのあらゆる手段を総動員したブルジョア価値観に対抗し、私たちの共産主義的な世界観・価値観を、参加する全員(講師・受講生の区別なく)の努力で探り、きり拓いていくことです。
また、私たちの「革命塾」は、世界の革命史と革命思想に学ぶとともに、「日本」の革命的伝統に学び、「日本」人民の革命闘争と思想創造に着目し、現代における私たちの思想と運動を「土着性」のあるものにしたいと考えます。
肝心なことは、紙に書いたものだけでは伝わらないことがあります。
「革命塾」は、マルクス主義を日本の現実の闘いの中で、創造的に発展させる立場から、戦前・戦後のある時代を日本共産党やそれに代わる革命党をめざして、あるいは諸闘争の中で、生き闘ってきた先人たちと出会い、自ら変革し、自ら起っていく、その物の見方・考え方・生き方・闘い方の構えを養いあう場でもありたいのです。旧い世代から若い世代への「遺産」の継承も、この時期を逃せば今後は難しいといわねばなりません。
こうしたことを踏まえて、仮称「コム(略称)」 への参加を条件とせずに、労働者民衆、とりわけ若い世代に開かれた「革命塾」の開催は、革命主体再生にとって、重要な仕事であると考えます。
(今後「革命塾」についての名称・具体的計画等について、討論を深めていくことにします。)
さて、最後になりました。仮称「コム」において先のような共同の出発点に立って、目標・課題の実現をめざして協議・協働を本格的に開始する際に、次のことを強調しておかねばならないと考えます。
第一に、すでに繰り返し述べてきたように、私たちのめざす二一世紀への希望の革命のための新たな革命綱領とその主体・「党」の創造の仕事は、勤労者大衆の自覚した一部分としての事業であるから、いうまでもなく少数特定の人びとの密室の仕事ではないということです。
だからこそ、この協議の開始がどんなに小さな部分から出発しようと、異論を排除しないことはいうまでもなく、国際主義的精神に立って、公然と論争し、その公開性の保証の中で、団結と協働を促進していくと同時に、いつでも勤労者大衆の論議への参加や批判・点検も可能なように、双方向をもった協議となるよう、あらかじめ自覚したものでありたいということです。
第二は、またこの協議を歴史の大転換期の中で、「既存」の共産主義者が四分五裂どころか政治グループとしては解体と消滅過程にある現実も踏まえて、あえて、これまでの潮流・経緯にこだわらず、勤労者大衆の一員として闘い学び、そこで信頼もされ、点検もされて日々共産主義者たらんとして苦闘している諸グループや個人の活動家や勤労者の中に根付き、拡がってゆくように最大限の努力を払わねばならないということです。
第三に、こうしたことを通じて、革命主体自身の自己変革とその主体と主体の 「間」の相互の関係性の在り方をも変えていくことをはじめから自覚した協議・協働でありたい。そのことを互いの作風にまで高めていくことに自覚的でありたいということです。
一人一人の生きて闘う革命主体としての人間が、矛盾的存在であり、この人々の個人の自律性の肯定の上での団結態でもある組織が、内外の階級矛盾にも触発されつつ闘うのであるから、矛盾のない〔一枚岩の党〕なるものは本来存在しないのです。だからこそ、こうした矛盾から発生する意見の違いをどのように認め合い、それをどういう観点で解決していくのか、そのことが問われるところです。
ですから、意見の対立に対して暴力的解体を図るようなことは論外であり、差異や異論を認め合い、むしろ相互啓発に変えるような、公然たる論争の組織化、少数意見の尊重のシステム、異質なものの間での「対話」の能力、決定的に意見の対立が生まれたときの処理の仕方等々、「他者」との関係性・団結の在り方を協議の中でも造り出していくことが決定的に重要です。
こうしたことが意識的・自覚的に、最後には空気を吸うように行われないならば、いかに「労働者民主主義」 「社会主義的民主主義」を言葉上掲げたとしても、それは〔絵に描いたモチ〕になってしまうと言わねばなりません。
協議と協働の場は、そうしたことの互いの一つの教育の場であるとも言えます。
―結びに―
「社会を転覆する革命はただ闘争の歳月を通してのみ、古い社会の汚れから身を清め、新しい社会を創造するにふさわしいものになる。諸君はつねに体制を変えるだけでなく、諸君自身を変え、自らを政治的支配にふさわしいものにするために、一五年、二〇年、ひょっとすると五〇年のたたかいを通過せねばならないだろう」(一八五〇年九月「共産主義者同盟中史委)
『共産党宣言』の獲得の後、四八年革命の敗北とその総括から革命の永続性と党の再建を訴えたマルクスの言葉です。
八九〜九一年以来の世界史的大転換期は、このマルクスらの際会した敗北を遥かに越えており、これまでの経験の枠ではとらえることのできないものだといえます。そうであればこそ、やり甲斐もまたあるといえます。
資本と国家の横暴に対して闘い、革命に向かって、労働者民衆の真に豊かな団結を造り出していくために、その一部であり核心となることのできる〔新しい質の党〕をめざして、大同につく志が、今日の瞬間、真に問われているのだと考えます。
あらためて、私たちは呼びかけます。
そのために、共に集い、衆知を集め、協議・協働の一歩から始めようと。